2005年4月29日

河内健二という記憶

16歳の頃。ぼくにポール・サイモンを教えてくれたそいつは、ニコンではなかったけれど、オリンパスのカメラを持っていて、コダクロームではなくてエクタクロームで撮った花の写真などを、ハンディなスライドビュアでもって見せてくれたりした。

上の三行に出てくる単語のすべては、当時のぼくの人生において初出のものであって、ついでにいえば、ドレークのSSR-1とか、松下のゲンコツスピーカーだとか、吾妻ひでおだとか、麻雀のルールとかいったものも、彼の周りから発せられたもので、そういう意味で、何かしら新しいものをたくさんくれた男だったように思う。

そう。彼は「歩く子科」だった。理科系面白雑誌の誠文堂新光社なのだ。

人間関係というのは、時に一方的なものになりがちなものだが、この場合もそうで、ぼくから彼に何かの影響を及ぼしたり与えたりということは、あまりなかったように思う。16歳のある時期、ぼくは彼の周りの事物や言葉をただ面白がって受け止めていただけだった。

彼は医大志望だったくせに、あまり学校にも行かず、ぼくはどこ志望ということもないけれど、同じようにあまり学校に行かなかったから、よく彼が一人で住んでいたアパートに転がり込んで、本を読んだりレコードを聴いたりして過ごしていた。

同じようなやつが、ほかに一人か二人いて、そうなるともうただの溜まり場だ。集まると、わけもなくげらげら笑いながらお好み焼きを焼いたり、安いジンをちょびっと飲んでひっくり返ったりしていた。そういえば、ハンドルが右には切れるが左には切れないYAMAHAのTY50というバイクでやってくるやつがいて、借りて乗ったらほんとにひっくり返りそうになったっけ。やつは体重移動だけでバイクを操っていたのだった。今でも信じられない。

ある時、彼の学校の生活指導の先生が踏み込んできて、ぼくの顔を見るなり、「君が○○高校のヤマイデか!」と、怒鳴ったことがあったが、こちらは、よその学校の先生が怒鳴ろうと何の関係もないことだ。「おおきなお世話だ」と心の中でつぶやいたような気がする。

そういうフーテン暮らしだったくせに、彼は無事に医大に合格し、進学した。ぼくは取り残されたように地元に残り、行くあてもすることもなくて、ただ漂うように丸二年を過ごした。鹿児島における不登校とプータローとニートの中興の祖であろうと思っている。
ああ。懐かしき笹貫電停よ。おばちゃんがジャンカジャンカと手動で玉を売る脇田のパチンコ屋よ。

そんな彼が医大を3年でやめ、仲間数人とコンピュータゲームの会社を興した。今では独立して、携帯電話のゲームなどを作っているらしい。当時の仲間の一人は将棋ソフトを作る森田和郎という人で、ぼくの最初のパソコンはこの人から買ったため、外字辞書には「角行」だの「香車」だのが登録されていた。

この「森田将棋」の開発マシンだった初代98ノートは、MS-DOS環境を究極まで高められ、ニフティ釣りフォーラムでJUNという小生意気なキャラクターを育てた後、田村真次という鹿児島の鮎師のもとへ渡り、1993年8月6日、有名な86水害で水没して、その数奇な運命を終えた。

ネットでカメラにまつわる言葉の森をうろうろしていて、エクタクロームという名に出会い、その鮮やかな花の写真の印象とともに、さまざまな記憶と妄想が涌き出てきた。

書いてもきりがないので、このあたりで。

河内。元気か。

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