2005年7月12日

プロレスについて

橋本真也の死で、プロレスという一項を立てた。実はぼくはかつて、いわゆるプロレス者だった。1972年からアントニオ猪木を見続けてこれたことが、ぼくの内のどこかで何かを醸してきたことは間違いことだろうと思う。

もはや、プロレスを語ることに何かの意味を見出すことはむずかしい。残念ながら、そういう状況になってしまった。「リングに戦いを取り戻せ」と、レスラーたちが真面目な顔でいうようになってはおしまいだ。

だが、それでも時々、ごく稀にではあるにしてもリングに『プロレス』を見ることがある。それはプロレスという様式の中にありながらも、つねに不定形であり、あまりにも幅広く、これがプロレスだと言い切れる性質のものでもない。それでもプロレスは、まだどこかでか生きてもいて、思いがけない贈り物のように、ぼくらに驚きと歓喜とイマジネーションを与えてくれる。

その一瞬は、あまりにもはかない。かつてアントニオ猪木の、その指先の一本一本の形までを満員の武道館が注視したような状況は、もはやなかなか望めないにしても、そのあまりにはかない一瞬のために、ぼくはリングでの退屈な舞踏と平凡なドラマに今でも耐えている。

いや、その退屈さもまたプロレスなのだ。野球というゲームが、投手と捕手の果てしないキャッチボールを繰り返すことを基本にした、退屈で素晴らしいゲームであるように。

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