2006年7月 8日

ザ・バースデイクラブ

80年代後半に福岡で活躍した、ザ・バースデイクラブというバンドがあった。ぼくが知っていた頃はアマチュアだったのだけれど、91年に東急系の会社からデビュー。見本盤のCDをもらって聴いてみたのだが、アマチュア時代の一発録りの方が、彼らの持ち味のまっすぐなロックが伝わってよほどよかったと思う。はっきりいうと、一発録りのデモテープに全然及ばないアルバムになっていた。

良いロックバンドがたいていそうであるように、彼らも本質的にライブバンドだったのかもしれない。いじればいじるほど、ロックが後退するという悲しいことが、彼らのデビューアルバムで起こってしまっていた。

それは、ぼくにとってとても残念なことだった。音がこちらに飛んでこない。ドライブ感もない。血が騒ぐ感じがしない。録音的にはダイナミックレンジが狭い。互いの音を聴きながら、その音の塊に自分の音をぶつけていく、というバンドとしての音になっていない。悲しかった。あんなに純粋なロックバンドには、あれから出会わない。

久留米というのは特殊な町で、ひとつの町としては人口20万とか30万とかいった程度なのだが、周辺の衛星都市みたいな市町村を加えると、相当大きな文化圏を形成する。それは「筑後」と呼ばれる地域だ。市だけでも、久留米、甘木、大川、柳川、八女、筑後、大牟田、鳥栖とあり、いくつかの郡に数多くの町村が、広大な筑後平野に点在する。音楽を語る文脈の中で普通に「久留米」というと、これらの町を含んだ筑後エリアのことと理解していいと思う。

演奏の場がそこにあるという理由もあるが、これらの地域のバンドマンは交流もあり、互いに喧嘩もし、意識もしているからだ。比較対象に「博多」があることも、影響しているかもしれない。たいてい、「博多がなんか」という意識でいることから、彼らはたとえば「めんたいロック」なんて呼ばれると吹き出すか怒り出す。あるいは「瞬間的白い流し目」で一瞥して終わりだ。つまり、まあ、そういうところだった。

その筑後は、ぼくが住んでいた当時、バンドの町だった。ぼくらがそれに火をつけた、といってはおこがましいのだが、導火線をウチワであおぐくらいの役にはたったかもしれない。ぼくらの作っていたタウン誌には、バンドのコーナーだけでも常時8ページ以上あった。年に数回、コンサートも主催した。ぼくらがやらなくても、筑後の高校生たちは勝手に会場を借り、PA屋や照明屋や印刷屋と交渉し、時にそういう業界の大人たちにドヤされたり、ステージの袖でトビゲリを食らったりしながら、勝手にどんどんライブをやっていた。みな、見事に生意気だったり純粋だったりした。見事だった。

一度、筑後地区にどのくらいバンドがあるのか調べてみたのだが、一応、バンドとしての体裁を整えている、というレベルでいうと500くらいはありそうだった。正確にはとてもわからなかったのだ。口うるさいロック者が聴き手として集まったライブで、まともに20分なりもたせるパフォーマンスのバンドだけでも40か50はあったと思う。いや、もっとあっただろう。

ベースアンプを積んだリアカーをパッソルで牽引して、田んぼのあぜ道をゆく。なんて格好いい高校生もいた。畑の中の一軒家を練習場に借りて、壁をピンクに塗ってしまったやつもいた。自力もしくは親がかりで建設した、本格的なスタジオも少なくとも三つは知っている。

そういう町から、どんな連中がプロとしてデビューしたか、なんてことはどうでもいい。要するにたくさんいる。古くはARBの石橋凌、ロッカーズの陣内孝則、鮎川誠、チェッカーズ、デートオブバースなんてところだけど、その後も多い。バンドではないけど、松田聖子や田中麗奈もそうだ。

そんな浜のマサゴほどもいたバンドの中で、というか、ぼくの20代後半において、世界中のすべての音楽のうちで、ザ・バースデイクラブくらい好きだったバンドはない。ロックが完全に窒息状態にあった中で、さっくりと風穴をあけてくれたのはブルーハーツだけれど、同じ時代、まあ、バースデイクラブを聴いてみてよ。ってな、もんだった。そこにだけ時代と関係となく「ロック」があった。ほれまくっていた。

リーダーの田中シゲルは、ぼくよりちょっと年上くらいだったと思うけれど、よか男だった。時々、ぼくのアパートで一緒にビールを飲んだ。弟のJUNというボーカルもいて、これもジャンキーヒップシェイクという、とてつもなくいいバンドを率いていた。この兄弟は、まったく見事なほどにロック者だったのだ。

バースデイクラブのドラムは、たしか飛松君という名だったと思うけれど、彼のソリッドなスネアが好きだった。「実は拓郎とディランとスプリングスティーンくらいしか、よくは知らない」という田中シゲルの、音楽性が好きだった。どこでどう間違えば、佐賀県三養基郡基山町、なんてところに、純粋培養されたようなアメリカンロックが生まれてしまうのかわからないけれど、ロックはこうであってほしいぞ、というところを生まれつきもっているようなバンドだったのだ。

ある時、彼らに「右の本格上手投げバンド」というフレーズを含んだコピーを書いた。よくわかんないのだが、あの時代の空気の中では、いいコピーだったような気がする。

『Boy's town』

やつはその日が来るという
だけど俺には見えない
鉄の扉の向こうで
そいつは今も押し黙ったまま

つらい昨日は終わった
だけど過去は刻まれる
俺の歪んだ背骨に
そして明日は遠い Boy's town.
Boy's town.

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コメント

ナワケンさん

ライブ、お疲れさまでした。

この夏、ちょっと怪我をしまして、そろそろいいかなとギターを抱いてみたのですが、右肩をいわしているので、だめでした。アコギの厚みが、あんなに体にこたえるとは。

この際、ボディの薄いエレガットでも買って弾こうかなとか思っています。

ヤマイデさん。
どうもこんばんわ。ナワケンです。
先日のライブはめちゃめちゃ緊張でしたよ。ベースは20数年弾いているのですが、ギターは初めてだったので驚くほどの緊張でしたが、この年で緊張する機会ってなかなかないので楽しみました。

最近は自分のバンドで忙しいのでジュンさんと会う機会が減ってますが会ったらお伝えしますよ。

今もジュンさんとのライブでは昔のジャンキーの曲をやっているので見に来てくださいね。
5人編成で4人は博多の同じ中学出身です。3人は同級生なので結構いいグルーブが出ていると思います。連絡しますね。

ナワケンさん、はじめまして。コメントをありがとうございました。

そうですか、ジュンさんと一緒にやっているのですね。ジャンキーヒップシェイクも好きなバンドでした。「BORN TO LOOSE」とか「SMALL TOWN GIRL」なんて曲を覚えています。

シゲルさんもがんばっているようで、うれしいですね。機会を見つけてライブに行ってみようかなと思います。

お二人に、ヤマイデがよろしくとお伝えください。

はじめまして!突然ですみません。
googleで「ジャンキーヒップシェイク」で検索したらこのサイトに当たりました。
僕は今、ジュンさんと「Mis-Fits」というバンドを東京でやってるナワケンと申します。
実家は大宰府です。
ちょっとしたきっかけで2年程前からジュンさんとやらせてもらっていてライブもたまーにやってます。
兄貴のシゲルさんのバンド(今は「DAYS」って名前です。)とも対バンさせてもらいました。
ジュンさんと約二年前初めて上野で会った時はめちゃめちゃ緊張したのを今でも覚えています。だって高校生のころステージで歌っているジュンさんを見てたんですからね。「あのジャンキーのジュンさん・・・」って感じです。今では一緒に飲んだり家に泊まったりしてますよ。
ジュンさんの曲は本当にいいですね。僕は今週の水曜日にギター一本でライブをするんですがジュンさんの曲がメインです。(男38歳初めてギターで勝負します)
音楽っていいですよね。。。

しんさん>

ありがとう。こんなプライベートな文章にコメントがつくとは思いませんでした。

今日は6時半から飲んでいて、ついさっき帰ってきました。最後はフォークの店で、いい人なんだけど、客のおいちゃんが説教を始めるので困りました。

ぼくら、あの時代、フォークなんて歯牙にもかけなかった。なんてことはいえませんでした。終わってしまった時代を懐かしむのは、おいちゃんの特権かもしれないけど、それにすがるのはよくないよな、と。イマシメにはなりましたけど。

いい話です。
フォークソングの奴らは今や立派な演歌歌手。
僕は奴らを信用しません。
演歌が嫌いな訳じゃないけど。

リンダリンダリンダ~!って歌ってもうけたことはないっす。

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