憂歌団(2)

1984年のある夜。ぼくは入ったばかりの広告代理店の社長に、久留米市通町の焼鳥屋「縄文」でサケをご馳走になっていた。広告代理店とはいえ、自社媒体を持っており、ぼくは編集希望で履歴書を出し、そのつもりで採用になったのだが、「お前は、世

憂歌団(1)

「あのさあ」とサワダが言った。 「こないだ、博多の憂歌団のライブに行ったわけよ」 「うん」 「ちょっと早く店に着いたと思ってたらさあ、もう店の前は長蛇の列なわけよ」 「うん」 「そいでさ。まあ、並ばなくても入れるかと思ったから、そこ

古田敦也捕手の引退に

昨年の秋、ぼくはヤクルトスワローズの秋期キャンプが行われている、松山の坊ちゃんスタジアムの三塁側ダグアウトに座っていた。今年、二度目の首位打者と最高出塁率の二冠を獲った、青木宣親選手のインタビューのために、そこで練習を見ながら時間待

大山志保さんのこと

さきほど、宮崎市内のゴルフ練習場で大山志保さんのインタビューを終えた。 これまで、多くの著名人やスポーツ選手のインタビューをしてきたけれど、仕事の直前はちょっとだけナーバスになる。といっても黙りこむとか、逆にしゃべり散らすというよう

ザ・バースデイクラブ

80年代後半に福岡で活躍した、ザ・バースデイクラブというバンドがあった。ぼくが知っていた頃はアマチュアだったのだけれど、91年に東急系の会社からデビュー。見本盤のCDをもらって聴いてみたのだが、アマチュア時代の一発録りの方が、彼らの

映画>柳川堀割物語

『柳川堀割物語』(高畑勲監督/1987)。 高畑勲が9か月ほどもロケして撮った、柳川の水路をめぐる16ミリのドキュメント映画。製作は宮崎駿。完成直後に上映会をやって以来、20年ぶりに観た。 柳川という町は、もともと有明海に面した低湿

新居昭乃さんのこと

新居昭乃さんには、ずいぶん昔、二回だけお会いしたことがあった。 最初はたしか1985年前後の久留米市文化会館の控室。うろ覚えだけど、YAMAHAのポプコンの予選があって、ぼくは審査員で呼ばれていて、彼女がゲストで来ていた。それだけな

石吾克也さんのこと

あら。石吾さん、ここ読んでたのね。なんか悪さを見つかったみたいで、気の利いた言い訳も思いつかなかったですわ。 さっき、渋谷で飲んでるという石吾さんから電話があって 「OOO-28のクラプトンシグネチャーを買ったんだってね」 「どどう

長渕剛さんのこと

はずみだから、長淵さんのことを書くが、特に知り合いというわけではなく、先輩として憧れていたわけでもない。当時の印象としては、「ギターがうまいなあ」ということと「いろんな人がいるなあ」といったくらいのものだった。 高校入学直後から疾風

白男川さんのこと

中学時代、適当に詩を書いたり喧嘩をしたりしながら、まずまず、普通の田舎の中学生をしていたぼくは、そのまま田舎の高校生となった。 進んだのは鹿児島県立鹿児島南高校というところで、教育県である鹿児島にあって、牧場にもたとえられるのほほん

河内健二という記憶

16歳の頃。ぼくにポール・サイモンを教えてくれたそいつは、ニコンではなかったけれど、オリンパスのカメラを持っていて、コダクロームではなくてエクタクロームで撮った花の写真などを、ハンディなスライドビュアでもって見せてくれたりした。 上

松下新平君のこと

夕方、新平君がみかんを持ってやってきた。 松下新平君は、「2003年度わが家を訪れた人々BEST10」のトップに輝く人であり、 一時は週に一度は会い、夢を語り合ってきた。 単に友人というだけでない深い間柄だったと思う。 ところが人の

井上康生のこと

昨年の初夏、井上康生にインタビューする機会があった。 アテネ五輪直前ということで、当然、話はその方面になり、 「8月19日に、最高の状態で臨むこと。そして勝つこと」 と彼は言った。 実は事情が許せば、アテネへ行くつもりだった。 あの

菊谷卓也君のこと

あなたがもし鹿児島や、ぼくたちのふるさとである谷山に何のゆかりもなくて、菊谷卓也という名を知っているとしたら、もしかするとあなたは女性だろうか。そしてミッション系の学校に通い、もしかすると合唱部だったりしただろうか。 世間では菊谷卓

トヤマさんに会うこと

自転車を買ってからというもの、「そこらをあてどなくうろうろする」というのが、日課のようなものになりつつある。 今日は、オクサンがお世話係を務める生け花講座の発表があるという、なんとかセンターの文化祭のようなものが、宮崎市青葉町のなん