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[4014] 一瞬の色>責任を持って魚を見つめたい 
2002/12/28 (土) 06:32:51 小西英人HomePage
▼ ぷいぷいユッケさん

 君と出逢えたことは、ぼくにとって大きかったです。

 若い人たちが、魚から命に興味を持ってくれて、いろいろ考えてくれることがいちばん嬉しいし、そこから、話が進んでいくのです。

 ぼく、必死になって夜も寝ないで釣りの週刊誌を創っていましたが、あるとき、本質的な疑問にぶつかり悩んでいたのです。

 ぼくらの仕事は、社会的に意味がなく、社会の谷間に咲く徒花(あだばな)ではないのかと…。

 そのとき、京都大学の中坊教授が言ってくれたのです。英さん、このごろなあ、魚を純粋に学問として考えようという雰囲気が社会になくなってなあ。だいたい大学に行くときに魚を研究したいと思う子はいないんや。けどなあ、釣り人だけは別や。釣りが好きで、魚が好きで、やりたいという意志があれば、大学でも院でも、どんどん勉強がすすむんや。若い子が魚に興味を持つのは釣りしかないやろなあ…。英さんとこが、科学的に正確な魚の情報を流してくれたら、それだけで、どんなに違ってくるかわかるか…と。

 それからです。ぼくの仕事に、誇りがほんとうに持てるようになったのは。

 それを実現しようと思うと、ほんとうにきちんと仕事しなければならないから、それから苦労はしていますが、ほんとぼくの目標、ぼくのライフワークになるものができました。

 それから、ほんと、魚類学会などに顔をだしても、いろいろなところの学生さんが、ぼくも釣り好きで、とか、釣りサンデーを読んで、魚類学を志しましたなどと、声をかけてくれて嬉しいです。

 子供たちの教育のために、キャッチ&リリースこそが最高で、これは命の大切さを教えて、これは文化である…などと、こんな論理が釣り人の論理として、まかり通っていますが、食べもしない魚を、絶対に逃がすのが前提で、ハリにかけて引っ張り回して、よしよしするだけなら、それは偽善だし、生命を弄ぶ行為に他ならないと思うのです。

 細いラインで、魚がへろへろになるまで引っ張り回して、それから逃がして、これこそが崇高な行為であって、ゲームだなんて声高に言う連中も信用できません。生命を弄ぶゲームの、どこが崇高なのでしょう。

 食べることを前提にしない限り、釣りは陰惨なものになるでしょう。命をいただいて生きている…ということを前提に、魚と遊び、魚を見つめて、それで逃がすものは逃がし、いただく物はいただくという「生命相手の作法」を身につけられるのは、いまの日本では釣りだけになっているのです。

 大昔に書いていた、【波のまにまに】というエッセイから、「一瞬の色」というのを、前にも転載しましたが、また転載しておきましょう。このころ、ぼくは、魚類学にほとんど興味を持たず、生きている魚の複写撮影をきちんとしようとも思っていませんでした。

 けど、こういう感覚から発展して、魚の生きている姿、断末魔の命の輝きを記録しようという思いに発展したのだろうなと、いまになって思います。

                            英人

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【一瞬の色】


 釣り人は、魚の、光輝くほんとうの色を知っている。
 それは、どす黒い色でもないし、青ざめた色でもないし、ラップされ蛍光灯の光の中で放たれる怪しい色でもない。
 太陽の光と、水によってのみ醸しだされるめくるめく色なのだ。
 それは、自然の色ではない。
 水中の魚たちの、生態写真を見るとき、思いのほかおとなしい色であるのに釣り人は驚く、釣り人でなければ感動的な色、ときにはけばけばしいとさえ感じる極彩色なのだろうけれど、釣り人の見る色は、あんなものではない。そのおとなしい色でさえ、人工太陽のストロボに照らしだされた色であって、水中の自然光の色ではないのだ。
 浅い海でも水の中は青一色のモノトーンの世界、水の住人たちは、そういう色の中にとけこんで生きている。
 それでは、釣り人は、いったいどんな色を見ているというのだ。虚飾を見ているというのか。
 違う。
 それは、断末魔の色、生が、その輝きを閉じるにあたって、ひときわ燃え上がる一瞬の炎の色。
 怒り、興奮し、生に向かって逸走しようとし、力の限り闘争し、その途中で、未知の空中に放りだされた水の命たちの、あきらめない最後のきらめきなのだ。
 彼の大きな瞳は、空を映し、雲を映し、太陽を映し、海を映し、岸を映し、森羅万象を映し、彼の命を奪う殺し屋を映しつつ、輝きを消していく。
 平和な空の下で堂々と行われる殺し。
 釣りなのだ。
 いま人は、生をあやめなくても生きていける。どこかで大量につくられたり、大量にあやめられたり、生は工場化されつつある。ぱっと冷凍して、ぱっと生き返らせて、便利になったという。そういう生を体に受け入れて生きているのだ。それは平和に見えて、生を陰惨なものにしている。
 人が生きるとき、ほかの生をあやめなくては生きていけない。その闘争本能を忘れてしまいたくはない。
 だから、釣りなのだ。
 平和な空の下、魚たちが放つ一瞬の色をいつも網膜に焼きつけたい。彼の最後を見届けてやりたい。せめて、すっぱりとナイフをつきたて断末魔の苦しみを短くしてやりたい。彼の生の終焉に責任をもちたい。
 釣り人の魚、太陽の下で、誰からも見捨てられた野垂れ死にはさせない。
 死をよく知るものは、生をよく知る。手が鬼ならば、心は優しい。
 日本の岸辺に、点々と散っている小さき魚たちの死骸はなんだろう。
 釣り人、いまだその死を知らず、いずくんぞ生を知らん。光輝く色を知らないのか。

1991年 4月 4日 (木) 午前 2時24分