2008年8月11日

トマス・キッドの日々

男の夏は海洋冒険小説である。と、リキんでみるのだが、実はこのジャンルの作品はそう多くはない。しかも、ぼくの好きな18世紀英国海軍もの、となると、ぐっと少ない。だから、惜しみつつちょびっとずつ読んでいる。

この数週間は、英国のジュリアン・ストックウィンが執筆を続けている「トマス・キッド・シリーズ」。筆者は11巻まで書くと宣言しており、現在、8巻。そのうち翻訳がハヤカワから6巻まで出ている。

このジャンルの永遠不滅の金字塔は、セシル・スコット・フォレスターの「ホーンブロワー・シリーズ」であり、おそらくこれを超えるものは出てきそうにない。人間の描写、心理の把握が、そこらへんの純文学など32ポンド砲でふっとばすほど骨太であって、これをライトノベルだと笑える人は、ちょっとさびしい。

そこへいくと、トマス・キッドの方は、正真正銘のライトノベルである。ちょっとそれはないだろうよ、というようなご都合主義な筋運びが平然と出てくるし、伏線が重々しかったわりには展開がどうってことないというような場面も多々ある。それでいいのだ。

そんなことよりも、47歳になるまで、まったく本というものを書いたことがない、英国海軍・オーストラリア海軍の船乗りだった筆者が、14歳で訓練船インディファティガブル号に乗り組み、15歳で水兵となったこの男が、体にしみこませてきた海の匂い、船の雰囲気というものが、このシリーズには濃厚にある。それは、ぼくのような海洋小説好きにとっては、またとない贈りものなのだった。

17歳のホレイショ・ホーンブロワーは、やがて提督となる男のしきたり通り、士官候補生からその軍歴をスタートする。一方、20歳のトマス・キッドは、真面目なカツラ職人であり、気晴らしにパブで飲んでいたところを強制徴募隊につかまって、重労働の下甲板に送り込まれ、囚人同様の陸者(おかもの)として軍艦の生活を始める。士官候補生どころか、彼にとってはただの水兵になることが、高く大きな壁だったわけだ。そもそも彼は、志願兵ですらない。

だから、ホーンブロワーが艦尾甲板から命令を発し船を動かす立場から海軍を描くのに終始しているのに対して、キッドは命令を受けシュラウドをよじのぼってヤードで命を張る視点から始まる。いや、それ以前の、下甲板にうごめく水兵ともいえない単純労働の世界からだ。こういう視点は、これまでになかった。18世紀の水兵の生活を、初めて克明に描こうとした作品だともいえる。

ストックウィンのもの書きとしての力量を、フォレスターと比較するよりも、神は細部に宿り給うというあの鉄則を思うべきだろう。航海中の帆の動き、船の傾き、下甲板の悪臭(この作家は匂いに敏感だ)、複雑なロープワーク、水兵、下士官、士官たちのそれぞれの心情と思惑、そうしたディテールの細かさに、感心しながら読み進めていけば、それで幸せだろうと思う。

ネルソンの時代、水兵から士官に昇進した男が120人いたという。そのうち22人が艦長となり、さらにそのうちの3人が提督にまで昇りつめた。士官が原則として貴族や領主から出てくるものであり、彼らが平民出身の下士官・兵を動かすという当時の英国海軍にあって、水兵から提督にいたるというのは、人生を5人分くらい経験しないと足りないほどの苦難と栄光の道だったのではないか。主人公トマス・ペイン・キッドも、そういう道をたどる。

おすすめはしないけれど、大事な愛読書というものがあるとすれば、ぼくにとってはこの本だ。

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コメント

JUNさん

僕が初めて自分で買って読んだ文庫本が、海洋冒険小説でした。
「船乗りクプクプの冒険/北壮夫」^^;
小学校5年くらいだったと思うけど、今でもよく内容を覚えてます。結構、血湧き肉踊ったことも。

ひろすけさん

そうそう。クプクプはぼくも好きでした。北杜夫は、高校くらいまで手に入るものは全部読んだのではないかな。「楡家の人々」は長女に読ませたから、下の子供にクプクプを買ってきてやろう。

お盆は、「大航海時代 online」で過ぎていきました(^^;)。

最近、コメントないけど、体の具合でも悪い?
仕事忙しい?
ちょっと、気になってます・・・

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