2007年12月 3日

憂歌団(2)

1984年のある夜。ぼくは入ったばかりの広告代理店の社長に、久留米市通町の焼鳥屋「縄文」でサケをご馳走になっていた。広告代理店とはいえ、自社媒体を持っており、ぼくは編集希望で履歴書を出し、そのつもりで採用になったのだが、「お前は、世間のことがなんもわかっとらんけん、しばらく営業をやれ」という社長の一言で、広告の営業マンになっていた。

この社長は吉村周三さんという(最近は天野周一と名のっているらしい)。社会人になってからこっち、この人くらい恩を受けた人はいない。大学を出たばかりのぼくを弟のように可愛がり、厳しく厳しく厳しく厳しく厳しく厳しく鍛えていただいた。

入社初日、編集の仕事をやるつもりのぼくをつかまえて、

「お前は、まあだ、わけがわかっとらんけん、営業で勉強するとよか。そいで、一度でよかけん、月の売上でトップになってみよ。そしたら、お前を編集長にしてやる。わしがほしいのはプロの編集長じゃ。こげな仕事はの、営業と編集は別の世界で仕事をしがちなんじゃ。放っておけば営業の方が強くなるもんじゃが、営業の理屈だけでも本は作れん。くーさか本になろうが。だけん、営業の気持ちもわかる、強か編集長が必要なんじゃ。一度でもトップをとれば、営業はお前に一目置く。自分らの仲間と思うじゃろう。」

「編集長は、編集の長じゃのうして、会社の顔にならんといかん。本の内容については、わしよりも判断が確かでなくてはいかん。営業が何か言ってきても『なあに?』というだけで、黙らせるくらいでないといかん。てれてれ記事を書くだけで、営業になめられるような編集長ならいらんぞ」

と言ってくれた。そして、どうにかこうにか、一度だけトップの売上を上げたぼくは、翌年、首尾よく編集に回してもらい、その翌年、編集長になった。26歳だった。

そのぼくが、入社して数ヶ月の1984年のある夜。久留米市通町の「縄文」である。

「ヤマイデ、夢ばかなゆるぞ」
「はあ」
「ライブばすっとたい」
「ライブですか」
「第一弾は、憂歌団じゃ。どげんや」
「ほんとですか。『生聞59分!』、ぼくの宝物ですよ」
「渋かの、お前は。最初は憂歌団じゃ。それ以外なかろう」
「いいですねえ」
「市民会館小ホールでやるばい。儲けはいらん。客にはみんなビールを配れ」

かつて鮎川誠のサンスハウスがライブをやり、チェッカーズが本拠地とし、陣内孝則のロッカーズも、アマチュア時代の石橋陵もわが家とした久留米市民会館小ホール。立ち見で250人の箱に、憂歌団は300人詰め込んだ。そして、社長の言葉通り、あきらかに未成年とわかる人以外、客にはビールを配った。

久留米市が運営するホールで、客がほぼ全員、酔っぱらいと化すライブは、前代未聞であったことと思う。そしてその夜の木村充揮は、客が代わる代わるつぎにくるサケを片端から飲み干し、客の誰よりも酔っぱらっていた。最高のライブになった。

それから、5年のうちに憂歌団のライブは4回ほどやらせてもらった。それぞれに思い出深いのだが、一番印象に残っているのは、国鉄がJRとなった1987年4月1日、「国鉄民営化記念・憂歌団ライブ」という冗談のようなイベントを、JR久留米駅前でやった時のことだ。

制服制帽を着込んだ、きまじめそうな駅長さんが、「本日は、国鉄の分割民営化を記念いたしまして、憂歌団さんをお招きいたしました。皆さま、楽しんでいただけますと幸いです」と挨拶した。そしてライブが始まり、木村充揮が例によってぐでんぐでんに酔い、「おそうじおばちゃん」をやるのを観て、駅長さんは目を白黒させていた。ぼくはバックステージでこみあげてくる笑いをこらえていた。

その夜の打ち上げ。飲み屋のカウンターの隣に座っていた木村充揮に、前から気になっていたことを聞いてみた。

「ジョ・アン・ケリーに声が似てるっていわれません?」

ジョ・アン・ケリーはカントリーブルースの女性ボーカルで、声質が木村充揮によく似ていた。当然、聴いているはずと思っていたのだが、木村氏の答えは、「誰や、それ」だった。

そしてぼくは、木村充揮が生まれながらのブルースボーカルであることを知った。お手本もなく、あの歌を歌っていたにちがいないのだ。

ややあっけにとられたぼくに、木村氏が言った。

「あのなあ。池があってんな」
「はい」
「その池に、鯉とフナがおりました」
「はあ」
「その鯉とフナの間に、パンツが落ちとってん」
「パンツですか」
「さて、このパンツ、どっちがはいたでしょう」
「.........」
「わかるか」
「わかりません」
「教えたろか」
「はい」
「答えはなあ。フナや」
「なんでですか」
「コイは、はかない」

それから5年後、宮崎で憂歌団のライブがあり、打ち上げをやっているというスナックに、こっそり行ってみると、カウンターに木村氏がいた。もう昔のことであるし、ぼくの顔など忘れてもいようと思いつつ、「こんばんは。ご無沙汰しています」と挨拶してみた。

「お前、なんや。なんでこんなとこにおるねん。お前、久留米の人間とちごうたんか」
横に座っていた島田和夫が、
「なんか、肥えたなあ。見る影もないやんか」

一年に150回もライブをやるような人たちが、数回会っただけのぼくを覚えてくれていた。

憂歌団を初めて観た時、二人の天才(木村充揮と内田勘太郎)に目を奪われた。そして、その二人がどんなに暴れても、腰をぴんと立て、背筋をしゃんと伸ばして、淡々とブラッシュするドラムの島田和夫にほれてしまった。

あるミュージシャンが、デビュー当時の憂歌団(21歳かそこら)を「人殺しみたいな連中で、怖かった」と評していた。そのやばさは、島田和夫にもあった。ほんとに怖いのは、ああいう無口でいつも同じ態度でいるやつなのだ。

でも、生身の島田和夫はちがった。ひょうひょうとしている、というだけでは足りない、底のしれない人間のあたたかみを感じた。ライブの後の打ち上げでも、ベースの花岡憲二とギターの内田勘太郎は、いつも午前0時まできっちりつきってくれる。

そしてボーカルの木村充揮とともに、島田和夫は「スタッフの最後の一人が酔いつぶれるまで」、必ずつきあってくれた。それが3時になろうが、4時になろうが、ばたばたとスタッフが倒れ、最後の一人が倒れるまで、にこにことサケを飲んでいてくれるのだった。

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