2008年3月13日

村田新八な一日

幕末から明治にかけて、国事に奔走した薩摩の志士に、村田新八という人がいた。京都時代は、西郷隆盛の懐刀として働き、戊辰戦争から上野戦争あたりでは、小隊長クラスとして活躍。維新なって新政府ができる頃には、鹿児島常備隊の砲兵隊長となり、その後、文官に転じて宮内大丞となった。

武人としても、文官としても、記録に残っているのはそのくらいのもので、華々しい功績も人目をひくエピソードもあまりないのだけれど、勝海舟は「大久保に次ぐ傑物」と評し、実際、西郷は西郷なりに、大久保は大久保なりに、やがては自分の後を継ぐ人物と目していたらしい。

wikipedia には、「西南記伝」からの引用として、こんな文章が紹介されている。「新八、人と為り、状貌魁偉、身長六尺、眼光炯々人を射る、而も挙止深沈にして大度あり。西郷隆盛曾て篠崎五郎に謂て曰く『村田新八は、智仁勇の三徳を兼備したる士なり。諸君宜しく斯人を模範と為すべし』と。十年の役、軍議ある毎に、諸将会するや、隆盛先づ問て曰く『新八在らざる乎』と、西郷の為に推重せらるゝや、此の如し」

明治4年、岩倉使節団に同行して欧米を視察、大久保の命で一行よりも長くヨーロッパに留まり、明治7年に帰国した時は、遣韓使節問題で西郷と大久保が破談して、西郷は下野し鹿児島に帰り、桐野利秋、篠原国幹の両少将はじめ大半の近衛師団の将兵とともに、薩摩出身の官職にあった者たちの多くも帰国した。同調して、江藤新平、板垣退助らも参議を辞職し、その時から西郷は、新政府に不満を抱く旧士族たちの象徴となっていく。

そういうタイミングで、村田新八は帰国した。彼もまた、加治屋町グループの一人であり、西郷とも大久保とも幼い頃から親しんでいた。その二人が歩調を合わせて維新を成し遂げ、それぞれの役割の中で新しい国造りに取り組んできた中での、日本を二つに割るような騒ぎに、村田はとにかく鹿児島へ行き、西郷の真意を確かめようとした。

そして、そのまま東京に帰ることなく、やがて起こる西南戦争で二人の息子とともに戦死することになる。軍議でもほとんど発言せず、政府に対しての開戦にも消極的だったと伝えられる。

おそらくは村田は、洞察の人であっただろうと思う。そのため、西郷に会った瞬間に、やがて起こる可能性のさまざまなことが読めてしまい、それをなさしめないように、自分が西郷のそばにいて、防波堤になろうとしたのではないか。

桐野や篠原といった人たちとは、もともとの洞察の深さがちがい、海外視察でその前提となる知識の量もちがい、彼らが憎む大久保の理想もわかり、もちろん兄と慕う西郷の心情にも通じていた。おそらくは、両雄のすべてを、深く理解していたただ一人の人間だったがゆえに、東京に帰ることができなくなったのだ。そして、シナリオは最悪の道をたどることになる。

大河ドラマ『翔ぶが如く』の再放送を、毎日見ている。前半は、わくわくと夢もあり、感動をおぼえることの多い物語だったのが、後半になると苦渋にみちたものになってくる。すでに佐賀の乱で江藤新平が破れ、今日、ちょうど村田新八が手風琴を抱えて2年半ぶりに帰国したところだった。

このドラマのキャスティングは、ほとんど芸術といえるほど、よく物語と人物を把握して配してあるのだが、村田新八役の益岡徹も、武辺の将としての村田ではなくて、早すぎた近代人としての村田新八の悲しみを、よく体現していたと思う。

数日前から、赤瀬川隼の「朝焼けの賦」という、数少ない村田新八を主人公にした小説を読んでいる。そして、掲示板では、彼が若い頃に寺田屋事件との関連を疑われ、島津久光に流された喜界島に住む人とも出会った。どうもなんだか、丸一日、村田新八で過ぎていったような日だった。

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