2008年7月16日

中野重治

真夜中になって
風も落ちたし
みんな寝てしまうし
何時頃やら見当もつかぬのに
杉の木あたりにいて
じいっというて鳴く
じつに馬鹿だ


中学生の頃、いずれはこんな詩を書けるんだろうなと思っていたわけです。

後年、久留米の丸山豊の最後の弟子(自称)になり、「君は、詩を書きなさい」とありがたくも言われ続けながら、ついにひとつも詩を書かず、結婚の媒酌まで頼んでおきながら、それでも詩を書かず、なおかつ師はあきらめずに、死ぬ年まで「詩は書いていますか」と呼びかけてくださった。

丸山豊が死んだ時、20代のすべてのエネルギーを注いだつもりの久留米が、ただのほこりっぽい田舎町に見えて仕方なかったな。丸山先生のことは、いずれきちんと書くとして。

中野重治の「真夜中の蝉」であります。

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コメント

最後の1行がとても素晴らしいですね。
私は、全く詩のことはわからないけれど、こういうのを
読むと「上手く掴んでるよなぁ~」と思ってしまいます。

そうそう、ウチんとこの下のガキ(女の子ですが・・)が小学校
5年なのに家でそんなことばかり書いてます。

文学的にどうのこうのはわかりませんが、小学校で詩的な
ものを書くって、なんか凄く線の細い性格に思えてしまって、
不安な気持ちにさえなりますが、それはそれで一つの才能
なんだろうか・・と、夫婦して納得するようにしてますが。

サルモサラーさん

言葉と向き合うことは、自分と向き合うことで、実はかなりのエネルギーがいります。そして自分と向き合えれば、いずれ人とも向き合えるようになります。

昔よくあった、内向的で人見知りの子が家で詩なんか書いている。というイメージは、実はちょっとちがって、言葉や自分と向き合おうとするのに、あまり性格は関係ないように思います。

詩の教育的効果については確言できませんけど(^^;)、少なくとも心のひだはずんずん刻まれて、育っていきます。それを豊かと呼んでもいいのではないでしょうか。

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