2007年9月12日

映画>破れ太鼓

『破れ太鼓』(木下恵介監督/1949)。

動く阪妻というものを初めて見た。ずっとこの人の『王将』や『無法松の一生』を観たかったのだけど、DVDは4万円以上もする全集しかなくて、一作ものは以前、企画はされたものの発売延期になっていた。それが今月、とうとうリリースされるらしい。とりあえずということで、今、レンタルできるおそらく唯一のDVD作品である『破れ太鼓』。

挿入歌を聴いたことがあると思ったら、昭和43年に木下恵介アワーでリメイクされた『おやじ太鼓』というTV番組を見ていた。この時の主演は進藤英太郎。われいまだ十歳ならざりし時、ニホンは高度成長期であり、うちの親父なども、ちょうどこれらの親父同様、火の出るように働き、火を吹くようなおそろしき親父であった。

さて、阪東妻三郎である。石原裕次郎が、『太陽の季節』でエキストラ兼当時の若者言葉指導みたいな立場で、この作品に参加した時、なんとかいうカメラマンが、カメラでそこらに立っていた裕次郎をのぞき、「ご覧、この子は阪妻だよ」と言ったというエピソードがある。つまり、ただそこに立っているだけで「何か」になってしまう存在感。それから急遽、裕次郎は役を与えられて、あの映画がデビュー作ということになる。

つまり、阪妻とはそういう役者であったらしい。この作品は、苦労の果てに一家をなした阪妻社長と、妻と六人の子供達が織りなす木下恵介のホームドラマ。いわば父権の崩壊のようなものが、戦後の民主化などというものと絡み合って、時に青臭く描かれるわけだけれど、もう途中からこの頑固親父に同情して同情して、仕方がなかった。

男がいかに家族を思いながら、日々の苦難を乗り越えていくかなんてことは、結局のところ自分がそういう立場になってみないことには、妻にも子供にもわかるものではない。結局、この親父がもくろんだ、娘の政略結婚は家族の反乱によって破れ、それによって会社は倒産するわけで、これを契機に阪妻は妙にものわかりのいい親父になってエンディングとなる。

その理不尽さこそが、ぼくには本質のように思われるのだけれど、結局このあたりが木下恵介の限界でもあって、あるいはキャプラ調とでもいうのか、映画はそういう風には描かれない。あの愛嬌のある阪妻の笑顔だけが、ぼくにはもの悲しい。裸一貫になってやり直す決意をしている男に、老後の話をするなどは引導を渡すようなものではないのか。

とまあ、ぼくも、うちの親父の血を引いているらしいのだ。
どんどんどどんど、どんどどんどどん。

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