2009年6月16日

サツマの流儀

海釣りは、鹿児島伝統の車竿で始めた。長さ八尺前後の二本継ぎの竹竿に、真鍮の針金で編んだ自転車のスポークみたいなリールがついている。スポークの外周部、リムにあたる部分も真鍮の針金を曲げて作られていて、そこに道糸が巻かれている。道糸はおおむね8号乃至10号。これに15号くらいのオモリを背負わせて、投げることができる。

ノーギア、ノードラグ。ギア比1対1。スポークの部分に人差し指を突っ込んで巻く。人差し指と中指、二本を突っ込んでもいい。その方が手首が楽に回って巻きやすい。これに魚が掛かると、どんなリールよりも敏感にその重みを伝え、魚のサイズと種類を伝えてくれた。

何しろ、糸と自分の間に介在するギアがないのだから、海の脈動を工業的に翻訳する必要がない。海から伝わるあらゆる情報が、そのまま人間のもっとも敏感な指に伝わるのだから、手釣りと同じくきわめて官能的な道具だった。

投げる時は、回転するスポークの内周部から突き出た、木製の小さな円筒状のドラムを親指で押さえて、リールの回転を塩梅する。これをサミングなどと小賢しい呼び方をし始めたのは、このリールの長い歴史からみると、ついおとといくらいのものなのだ。

何しろ、南宋時代に描かれた『寒江独釣図』には、このリールそのものずばりが描かれている。この絵では船釣りだから、仕掛けは下に降ろしているようにも見えるけれど、なかなかどうして、よく見ると糸は斜めに入っている。釣っているのは鯉かウグイの類かもしれない。そうすると、餌は何かの団子であったか、ミミズであったか、あるいはエビのようなものか。どうも、独釣を楽しむ男は、船からちょい投げをしているようにも見える。

加えて、より遠くを釣りたいという釣り人の必然として、この当時から糸巻きの横には、道糸の出を塩梅する小さなドラムがついていたものと、ワタシは確信するわけである。これがなくても、回転するリムそのものを親指で押さえて、道糸の出ていくのを加減することができないことはないけれど、その場合、親指はほぼ垂直に立つことになり、やりにくい。まったく加減をしないままにぶん投げてしまうと、壮大なバックラッシュが起こるのだ。

それがおそらく台湾に伝わり、台湾から鹿児島へ伝わって、この車竿の別名を台湾リールといった。昭和40年代、高度成長に湧く日本国の南の端の、少しよそとは異なる歴史と気風をもったサツマの国で、一人の少年が海釣りを覚えようと思えば、まずこの竿と向き合うことになる。そして真正面に見える桜島に向かって、いかにも南国らしい明るい碧ともいうべき水色をたたえていた錦江湾越しに、でやあと仕掛けを振り込むわけである。

今見ると、お話にならないような大作り、おおざっぱな竿であり、穂先が小指ほどもあって、いかにもサツマの剛毅と朴訥とを感じるのだが、当時のサツマにおいてはこれが海釣りの標準器であり、同時にほぼ唯一の釣り道具でもあり、その直後にグラスロッドが出回るまでは、ほかに比べるものもありはしなかった。

そして、そんな道具でも、いくらでもシロギスが釣れ(彼の地では、やはりキスと呼んだ)、ネズミゴチが釣れ(彼の地では、これをゴッババと呼んだ)、時にクロダイが(彼の地ではチンと呼んだ)釣れた。キスなど、ゴカイを掘るまでもなく、刺身の残りのイカを短冊に切って放り込んでおけば、あの剛竿を、がしんがしんと揺らす大当たりで、真白く輝く野太いのが釣れてきた。ゴッババも、よく肥えて野太いのがいた。

さらに、餌木もこれで投げることができた。もともと、餌木は船釣りの道具である。満月の夜に船を漕いで、ミズイカを釣る。それをリールで投げたら面白い。新しい釣りができた。エギングと名付けた。やがて陸っぱりがエギングの本流ということになって、これを船からやるのをボートエギングと名付けた。

笑止というべきであろう。あまりに、ものを知らないというべきでもあろう。陸っぱりでも、船釣りでも、餌木作りのひとつの拠点であるサツマでは、当然のようにやっていた。そのくらいのことは、少し人に尋ねればわかることだ。PEラインと専用のカーボンロッドがあって初めて、エギングが成立したなどというのは、さらにタチの悪い話なのだが、もはやどうでもよい。

キスも、ゴッババも、チンも、ミズイカも、人の暮しに近いところに棲む魚である。とりわけて、川が流れ込んでいるようなところは、魚が多く、釣り人も多い。そんなところで、やはり一目置かれた魚は、サツマにおいてもチンであった。これは、子供などがなかなか手を出せない立派な魚であり、そのチンを専門に狙う大人は、いかにも大人の釣り人らしい威厳と風格を備えているように見えた。中には、ステテコ姿で竿を出している人もいるのだけどね。

チンを狙うには、まず餌となるシャコを掘らなくてはならない。ゴカイと同じく河口の浅瀬が、干上がったようなところを掘るのだが、そのシャコの居場所からして、子供にはうかがい知ることのできない秘密の場所であった。それは、大人の釣り人の中でも、一部の人のみが知る場所であって、聞いても教えてくれないのだといわれていた。もちろん、釣具屋でも売っていない。

そうして掘ったシャコを餌に、車竿を二本、放り込む。竿尻にはパンツのゴムが結わえてあり、その先に針金を曲げた鉤状の金具がつけてある。これを、リールのリムの部分に引っかけると、ストッパーとして機能し、チンのような大きくて立派な魚が掛かっても、リールが逆転して道糸が際限なく出ていくのを防ぐ。

さらに決まって、チン釣り師の脇には、自転車が倒れていた。いや、倒して置いてあるのだが、竿尻から伸びた紐が、フレームなりハンドルなりに結わえてあった。これは、チヌのような大きくて立派な魚が急に引いても、竿を海に持っていかれないために、そうしているのだった。

その姿を見ているだけで、胸がときめいた。キス釣りのように、投げれば必ずアタリがあるというものではない。チャンスは一日に一度か、二度。その時を待って、悠々と海に向かってタバコをのんでいるチン釣り師の姿は、海釣りを始めたすべての子供の憧れであり、目標でもあり、自分もいずれ大きくなったら、あのような釣りをするのだと心に決めていたのだが、小学生のうちに海は埋め立てられ、海岸線は遠くなり、川には大きな堤防ができて、ステテコをはいた釣り人の姿も消えた。

海がまるごと、視界から消えるのと同時に、車竿が消え、サツマの釣りが消えたのだった。

あの碧かった海を悼む気持ちは、何十年たってもいやされることはない。蔑みと愛着が半ばする、巨大なゴッババや、オリーブ色の背をもつ三年ギス。夕陽に輝く水辺で、無心に竿を振っていた子供たち。その子供にサバやイカの短冊を持たせて、釣り場に送り込んでくれた母親たち。夕方、ちょっと出かけて肴を釣っては、いい気分で焼酎を飲んでいた男たち。

みんな消えてしまったのだった。

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コメント

私も、海釣りで「うぉ、恰好エエなぁ!」と思うのはグレ釣りよりも
むしろチヌ釣りです。こちらではエビ撒きで釣るのが正道でしたが
その時でもチヌを釣れればいっぱし・・みたいなところがありましたね。

河口でジャコを掘る・・・。

それは私が今求めてる穴ジャコの方かな?
ボケ(ニホンスナモグリ)の方かな?(^^)

サルモサラーさん

私の海釣りの師匠は、明石のえび巻き師のいちろうさんという方なのですが、何十年もこの釣りをやっているのに、今でもチヌが掛かると脚がふるえると言っていました。

実は、私も震えます。膝が笑うというんですか。がくがくとなって、足もとがおぼつかなくなり、声はうわずり、目を宙空をさまようといった感じで。

たぶん、子供の頃の、チヌはえらい魚だという思いが、どこかにあるんでしょうね。それは、型でもなく、数でもなくて、ただ一尾の、自分の釣りで釣ったチヌ。どんな釣り方でも釣れてしまう魚だから、こういうことが起こるんだともいえるのかも。

久慈川で結構釣れました。友人の釣った分ももらって、冷凍の鮎が40匹くらいストックされました。今年はもういいか(^^;)。

対岸で80歳くらいのじさまが竿を出していました。囮を平然と空中にぶらさげ、タバコに火を付けるまで1分くらいそのままにしてます。それからおもむろに流すのですが、もう完全に瀬の水面を滑ってます。フローティングミノーです。そんなの平気。30分くらいやって、囮を空中で(^^;)交換して流すと、また半分浮いているのでした。

全身ウルトラマンみたいに極めたプロはだしの友人と、初めのうちは笑いをこらえていたのですが、竿をたたんで帰り支度をする頃には僕も友人もなんとか1尾釣って欲しいと思うようになっていました。

ウルトラマンを見直しました。一緒に川で泳いだり鮎を突いたりしていたから、根っこの所が同じなんだと思ったのでした。

ウナギかなぁ、僕のチヌは。

いちろうさん・・・、長いことお会いしてないですが、お近くだったので何度か釣りにも行ったしお家にも行きました。シスオペが明石におられてそれも近くで・・・ということでFFISHのなかでお会いした数少ないお一人です。東京へ行かれた・・・とお聞きしてからは所在を知らないのですがお元気なんでしょうか・・・。

しんさん

そんなおじいさん、綾北川にも何人かいましたけど、ここ数年あまり姿を見ないような。一度、どう控えめにみても80歳は越してる人が、ステテコでよろよろ川に入って、オトリをフローティングさせてました。思うに、昔はそれでも、何かのはずみに釣れたんだろうなと。

また、その何かのはずみが、けっこうしばしば起こってたのかもしれませんね。坊津灘さんが五ヶ瀬で、棒みたいになって色が変わり、ほとんど死んでいるようなオトリで、夕方、さしてくる鮎を釣ったのを見たことがありました。

サルモサラーさん

いちろうさん、私も長くお会いしてないのですが、今は明石におられるのではないでしょうか。

今でも毎年、新海苔の季節になると、たくさん送っていただいて、恐縮しております。

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